今日

文章は全て人に読まれるために書くものである

社会的な命乞いについて

アンケートを取ったら、命乞いが上回ったので命乞いについて書きます。ボカロは明日書くね。わたしの大好きな曲をバンバン紹介しようと思っていますのでよかったら見てください。

 

その前にちょっとだけ今日について書かせてほしい。

 

今日はどうしても会いたかった「彼女」に会えた。心理的集団リンチを受け、引き出しを2発蹴られてからというもの(蹴られたのはつい10時間前の話だけど)、私は彼女の実存を渇望していたのだ。

かといって心理的集団リンチの話や引き出しの話はしなかった。彼女も読者のみなさんと同じ人間なので、悪い話は聞きたくないだろうと思ったのだ。まあ、そんなことを思ってもいずれどっかの折に話しちゃうんだろうけど。

1週間くらいしか経ってなかったけどすごく久しぶりだったし、私にとっては相変わらず美しく見えた。

 

 

はい、命乞いについて書きます。

昨日も書いたけど本当の意味での命乞いはしたことがない。生存権を誰かに握られたことがないからだ。

しかし、社会的な命乞いならよくしている。

例えば高校生の時、携帯を先生に取られそうになり、私は必死で命乞いをした。(携帯を使用していると問答無用で先生に没収される学校だったのだ)なぜかと言えば出会い系にはまっていることが親に知れ渡ってしまう恐れがあったからである。

結論から言うと2回命乞いをして、最初の1度目は失敗した。だが2度目は成功した。

「携帯ではなく、iPodが誤作動を起こしたんです。私は携帯を触っていません。助けてください。」

私の社会的な死は免れた。

今じゃあ誰も携帯もiPodも持っていない。

 

私の考える社会的な命乞いの一つに

「次は絶対頑張るので見捨てないでください」

がある。

誰かから見捨てられることも充分社会的な死だと思う。ちなみにこの命乞いなら8時間前くらいにした。

人からの無関心というのは本当に怖い。ついこないだまで関心があったはずの人の視界から自分がつうっと消える恐怖といったらない。無関心を経験していない人は幸せだ。そのまま幸せなままでいてほしい。

 

命乞いに話を戻す。社会的、生物?的に関わらず、命乞いは本気の嘆願ではない。結局自分の命さえ助かれば何でもいいわけだ。最悪脚を失おうが手を失おうが、命さえあればなんとかなる。だから本当に思っていないことでも並べればなんとかなるだろう、と。

ドラマとかでも誰かに殺されそうになる人間は必死で命乞いをする。「なんでも言うことを聞くから」などと言う。でも本当にそんなことは思っていない。自分の命さえ助かればという一心なのだ。

そう思うと命乞いというのは本当に身勝手でかつ、人間らしい行いだなと思う。

 

当たり前のことしか言ってませんね。

頭の悪さに拍車がかかった文章になってしまった。命乞いについてはこれで終わりです。

 

f:id:azumism:20171114225212j:image

 

これは今日食べたピザ。